こちらで紹介しましたが、大学生の頃に博物、美術に開眼し、様々な博物館、美術館を巡ってきました。様々なものを鑑賞すれば好きな博物、美術のジャンルは自然に拡がっていくものですが、それまでさしたる興味を示さなかった「この世のものでない」もの達、殊に古来から日本に伝承されてきたそれらに強く惹かれるようになったのは、2016年夏に開催された「大妖怪展」と併催の「幽霊画展」の鑑賞が契機となりました (両展示については、こちらに紹介しています)。
あるとき本屋に立ち寄り、いつものように長時間の立ち読み態勢に入ったとき、ふと目に入ったのがこの表紙でした。
ホホゥ、ずいぶんと綺麗な、迫力のある姐さんだな・・・・。どれどれ。
ページを開けてビックリ!、そこには九相図や幽霊画といった、最近特に私が興味を持っているジャンルの画が並んでいました。
日本画の様式の伝統は継承しつつもそこに彼女の世界観が加えられ、これまでに観たどれとも異なる独特な世界が拡がっていました。素晴らしい・・・。
この時は自転車で出かけておりましたので、すぐに家に戻りクルマでこの本屋に再来、この本を購入し改めて家路につきました。
私には買ってしまった本はまず読まない (買っただけで安心し、いつでも読めるからと放置してしまう)という癖があり、(本屋さんには申し訳ないのですが)気に入った本は買わずに憶えるくらいまで立ち読むことにしています。でも、この本は違いました。その日から1週間ほど毎日ページをめくりましたし、買ってからだいぶ日がたちますが、いまもちょくちょくページをめくっています。
こちらが松井冬子画伯のホームページで、ほんの少しだけ、画伯の世界観に触れることができます。
展覧会があればぜひ出かけたいのですが、2021年は後半にイギリス、フィンランドで開催されるのみ、今年中に画伯の作品を直に鑑賞するのは難しいようです。
画伯は、東京藝術大学で博士号を取得しています。博士論文のタイトルは、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。画などを目で鑑賞しても、その画から何かを覚醒されれば痛さを感じてしまう、といった内容ではないかと推察しますが、どのようにして、またどのような論拠をもってそれを示したのでしょうか。
私は永らく物理学を専攻していましたが、「自然科学とは、ある自然現象に対して辻褄が合うような説明を試みる学問」だと承知しています。辻褄が合うように、とは、今後新たな証拠が出ればひっくり返る余地もあるが (もちろん、主張している当人はそのようなことはないと信じてはいるのですが)、発表している時点ではある自然現象を矛盾なく説明できている、といったニュアンスでしょうか。だから我々の分野の博士論文 (学位論文に限らず、発表する論文すべてにいえることです)は非常に明快で、データを積み上げ、データに結論を語らせる構成であることがほとんどです。
自然科学の論文中では、「私は、○○のデータから△△のように考えた」のように表記するのは非常に稀です。主語が「私は」だと、○○というデータから△△という結論に導くのに、「私」というヒトの主観が入ってしまうからです。普通は、「○○のデータは、△△であることを示す」と表記します。逆に言えば、△△という結論を (ヒトの思惑を介することなく)直接に導けるだけのデータや論拠が必要になるのが自然科学です。
これに対して、人文学や芸術などの分野ではあるヒトの知的思考そのものが研究対象なのでしょうから、論文中には恐らく研究者個人の主観が並べられているように推察します。画伯はどういう論拠で博士論文のタイトルに示した不可避性を主張したのでしょうか。大変に興味があるところで、次に国会図書館に行った際に閲覧しようと思います。東京出張の楽しみが、一つ増えました。
(日本国内で発行されたすべての博士論文は、国会図書館に収蔵されます。私も、確か2冊だったかな、博士論文を寄贈しました)
途中だいぶ話が逸れてしまいましたが、最近私が読んだ「この世のものではない」系の本を紹介します。上記の内容を読んでいただいた方々からは、「オマエはそれを買って読んだのか??」とツッコまれてしまいそうですが、そこは温かい目でご容赦ください(苦笑)。
今回は、ここまで。
次の機会にお会いしましょう!
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